TACT/FEST | タクトフェスト | 大阪国際児童青少年アートフェスティバル | 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋4-19-118 | TEL 06-6656-1510
   
 

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    ホーム>親子クリティック


    論理的思考を持つとおとなと、直感的な感覚を持つこども。親子で同じ作品を観てもらい、ひとつのTheatre for Childrenを異なる角度から語ってもらいます。親子の思考と感覚はどのような対比を見せるのか。とても興味深い、あたらしい批評のカタチ。

    親子クリティック対象作品

    アン=カトリン・クラット『ひとりぼっちのおはな』
    シアター・リフレクション『アダムさんとイブさん』
    タリタス・コンパニョンス『ペイント版スズの兵隊』
    カンパニー・アルコスム『トラバース』
    二階堂瞳子『アイドル、アニソンで超踊ってみた!!!!!』
    シアター・ペロ『アストンの石』
    コープス『ひつじ』
    国内招聘6団体『拡張演劇1』
    国内招聘6団体『拡張演劇2』
    コープス『夢見るための50の方法』
    パース・シアター・カンパニー『スプートニクの深海探検』
    飴屋法水『「教室」』
    多田淳之介×クラウディオ・モラルス『ロビンソン&クルーソー』
    メルラン・ニヤカム(カメルーン、フランス)+SPAC静岡舞台芸術センター『タカセの夢』
    市原幹也+野村政之『LOGBOOK あべの』

    親子クリティック参加者

    上田亘(公益財団法人セゾン文化財団/森下スタジオ)+10才の男の子
    郡山幹生(有限会社ネビュラエクストラサポート(Next)代表取締役)+3才の女の子
    高野しのぶ(現代演劇ウォッチャー/「しのぶの演劇レビュー」主宰)+19才の女の子
    林立騎(ドイツ語翻訳者)+2才の男の子
    日比野啓(演劇研究者、成蹊大学文学部准教授)+10才の女の子
    ※50音順

    上田 亘(公益財団法人セゾン文化財団/森下スタジオ)+10才の男の子  ※50音順
    夢見るための50の方法

    会場は地下の公共広場。その中央に一枚のドア。「あれ、どこでもドアかな。」「あ、あの人ドアの後ろから出てきたよ。そろそろ始まるんじゃない?」「後ろからだから同じ空間じゃないよ。だからまだだよ。」日本人なら誰でもドラえもんを想起させるドアがあるのだけど・・。

    お揃いの白いパジャマを着て、寝袋に身を包んだ患者たちは、不眠症どころか、みんなそろって最初から居眠りしている。そのうち一人の帽子が隣の患者に取られ、その患者はそのまた隣の患者に取られ、取り返そうとすると今度は別の患者に理不尽にも叩かれ、果ては突然ピストルで打ち抜かれる。虫の音やフクロウ、不気味な叫び声。時規則正しく刻まれる時計のようなリズム。夢の中では、走っても走っても他の人に追い抜かれる。今まで主人公だったはずの自分は、突然仲間はずれにされ・・・。
    これは夢を見るための処方箋じゃなくて、夢の中の悪夢じゃないか。どれも身に覚えのある夢の中の不条理な世界。
    終わって子供が一言、「50もなかったよ」。不眠症の患者が夢見るための方法は確かに50もなかったかな。うーん、数えてたのか・・・。

    拡張演劇1

    三種三様いずれも個性豊かで、ひとつのプログラムに3団体のエキスがぎゅっと詰まった、福袋のような作品群。3団体ともスタイルが全く異なるので、いずれの作品も新鮮な気持ちで観ることができました。エネルギッシュでポップなロロの「かわいいうた」は、近くて遠いおばあちゃんと歌の話。おかげで少年時代の曲が頭から離れなくなりました。危口統之「オスヌ・オタマイ・ウカルベカス」は、タイトルをみてもどんな作品か想像がつかなかったのですが・・。トトロを呼び続けるお姉さんが可哀相になりました。ホナガヨウコ企画「スポーツバンドと音楽パーク」は、ドラムやキーボードの生音に、だんだんと声が重なるだけで楽しい気分になります。音楽に合わせて踊りが変化していくのを見ると、こちらが踊り出したくなりますね。

    「トトロって、見えないからいいのかな?姿が見えないから、見えて欲しい姿で想像できるのかな。」「トトロは、メイちゃん二人くらい丸のみできると思うよ。だって口大きいもん。目を開けたとき、トトロが怒ってたらヤバイんじゃない?」舞台を観て、少しだけ、見えないものが見えたのかもしれません。

    拡張演劇2

    「キレイハキタナイ。どういう意味だったの?」「物事には表もあれば、裏もあるってことじゃないかな」「えーと、アナタハ、キレイデスカ?ワタシハ、キレイデス。アナタハ、キレイデスカ?キタナイデスカ?」
    一度聞いただけの台詞なのに、子供は覚えていました。マクベスの話があったので、シェイクスピアが四大悲劇を書いたことを話すと、「えー、4つとも悲劇?喜劇はないの?ひとつくらい喜劇はないの?」
    いや、あるよ、たくさんありますよ。でも、どうして四大喜劇とか選んでないんだろう?そしたら、みんな幸せな気持ちになるだろうに。

    児童演劇というと、なぜか品行方正で肩こりしそうな作品をイメージしてしまいます。でもこの拡張演劇の参加作品は、どれもすこぶる風通しのいいもので、しかも観終わったあと、頭の上にハテナマークをつけてくれました。
    影絵、文字あわせ、切り紙などを使って幾重にもイメージを喚起させる富士山アネットの「my empire」は、マクベスをモチーフに、人の心の奥襞に迫るものでした。ハエの生態をユーモラスに描いたモモンガ・コンプレックス「ちいさな一日。」は、身体の微細なしぐさだけでおかしみが伝わってきて、子供は大笑い。最後の作品、かわいらしいアニメーションが印象的な範宙遊泳の「おばけのおさしみ」は、女の子がお使いに出かける、みらいみらいの物語。観終わったあとも息子は「ぞるでがけばお」と呪文のように呟いていました。

    翌朝、子供が寝起きに言ったこと。「あー、舞台の夢見た」「え?どんな?」「覚えてない。横にいるパパに話しかけようと思ったら、起きちゃった」。夢の中でどんな作品観てたんだろう。そして、どんな感想を持ったんだろうな。

    スプートニクの深海探検

    「あ、マイケルだ!マイケルって、小さい”ッ”が最初と最後につくよね。」
    何のことかと思えば、客入れの音楽にマイケル・ジャクソンの音楽が流れ、「ッアウッ!」とか「ッホーッ!」とかシャウトしていました。

    舞台中央には、丸くくり抜かれたような円形のスクリーンに、うっすらと明かりが漏れ、月のようにも、潜水艦の窓のようにも見えます。愛しい妻を亡くした男が潜水服に身を包み、妻の魂を求めて、海の底へ底へと降りていく幻想的な物語。スクリーンに描かれていくアニメーションが楽しく、指人形の主人公=スプートニクが愛らしく、ウクレレの音も効果的に、物語がせつなく心に響きました。
    海の底で、オレンジ色の光と戯れるスプートニクが本当にキュート。潜っている途中、海の底にミラーボールを見つけて踊るんですが、それがまた格好いい。ムーンウォークまで踊り始めるんです。うーん、ここでマイケルと繋がるのか・・。スプートニクの声も、可愛らしさや優しさや海に潜っている雰囲気まで醸し出していて素晴らしかった。最後、スプートニクは潜る時間が長すぎて、ギリギリ息が続かず死んでしまうのですが、安らかに旅立ったと思えるラストでした。一人舞台とは思えない、あっという間の45分でした。

    「ミラーボールを見つけて踊ってなかったら、助かってたかもね」
    まぁ、そうかもしれないんだけどね・・。

    郡山幹生(有限会社ネビュラエクストラサポート(Next)代表取締役)+3才の女の子  ※50音順

    タリアス・コンパニョンス「ペイント版スズの兵隊」(ドイツ)

    【親(私)の感想】
    小さなビニール製キャンバスに描かれていく壮大なファンタジー。
    画を上書きしすることで次のドラマが浮き上がってくる(※進むではない)という表現は、
    漫画でもアニメでもない、とても刺激的なものでした。
    また、ペインティングの技法が「描く」「塗る」だけでなく、
    「貼る」「ぼかす」「消す」「映す」など、非常に多様であることに感心しっぱなしでした。
    童話特有の物語の破たんぶり(これって、ストーカー犯罪の話ですよね⁉)も含めて、
    折れかけていた心を一気に昂ぶらせてくれる素敵過ぎるパフォーマンスでした!
    【娘・3歳の感想(反応)】
    「途中で飽きてしまうのでは?」と心配していたけど、ほぼ全編に渡り見入っていた。
    終演後感想を尋ねると、「・・・」。
    堪らず「おもしろかった?」と聞き直したところ、大きく頷いた。
    うーん、これじゃあ、ただの誘導尋問で、企画主旨から外れちゃうなあ、と反省。
    カンパニー・アルコスム「トラバース」(フランス)

    【親(私)の感想】
    フランス発、楽しくて奇妙なノンバーバルパフォーマンス。
    例えるならば、デラシネラ×NANTA×小島よしお・・・と云うと、怒られるかな?
    序盤・コミカル、中盤・激しく、終盤・ダークに、という構成も意外性があって楽しかった!
    【娘・3歳の感想(反応)】
    決して子供向けに作られたとは思えない作品だったので、
    「これはさすがに3歳には無理かなあ」と上演中も彼女の反応が気になってしょうがなかったが、意外にも「なんだこれ?なんだこれ?」と言いながら、最後まで食い入るように観ていた。
    でも、終演後の感想は「・・・おなかすいたー」。
    え?舞台設定がキッチンだったから?多分違う・・・。
    二階堂瞳子「アイドル、アニソンで超踊ってみた!!!!」(日本)

    【親(私)の感想】
    パフォーマンスの間中、演劇人としての自分と親としての自分が激しく葛藤した。
    いろいろあって冷静に言葉にすることができそうもないので、
    本当に申し訳ありませんがこの作品については棄権させてください。
    すいません。
    【娘・3歳の感想(反応)】
    開演前は「あいどるすきなのー!」とワクワクしている様子。
    上演中はずっと硬直しっぱなし。
    終演後心配になって「怖かった?」と尋ねると大きく頷いた。
    でも、5分後に「今日観た中でどれがいちばんよかった?」と訊くと、
    「こどもたちがうたってたやつー」と答えた。
    ・・・うーん、判断つかず。
    コープス「ひつじ」(カナダ) 

    【親(私)の感想】
    3年ぶり2度目の観察。
    多分どの個体も当時と変わらない顔ぶれでいてくれたようでなんだかうれしい。
    シンプルな演出とニュートラルな視座、そして卓越した表現力、
    これらが備わった本作は、もはやこのフェスのフラッグシップとして不可欠な存在になっていると思う。
    同時間帯に地上階で行われていた「プレイパーク」にもひつじたちが乱入してきたら楽しいだろうな、
    などと創造をふくらませておりました。
    【娘・3歳の感想(反応)】
    親「どうだった?」
    娘「こわかったー」
    親「どの辺がこわかったの?」
    娘「おっきいこえでめー!っていうからこわかったー!」
    親「でも、見た目はめいちゃん(※娘の大切にしているひつじのぬいぐるみ)と同じだったでしょ?」
    娘「ぜんぜんちがうー!」
    親「それは失礼しました」
    シアター・ペロ「アストンの石」(スウェーデン)

    【親(私)の感想】
    石を拾い集める優しい男とそれを見守る両親の姿を描いたウェルメイドな音楽劇。
    ピアノとウッドベースの温かな響き、
    さらに両親役の二人が醸し出す柔和な空気がとても心地よく、ついついウトウト・・・。
    なんとなく「まんが日本昔ばなし」を思い起こしました。
    【娘・3歳の感想(反応)】
    親「どうだった?」
    娘「おもしろかったー」
    親「どの辺がおもしろかった?」
    娘「いしをねー、ふくろにいれちゃうのー。ほんとはね、ふくろにいれちゃだめなんだよ。」
    親「なんでふくろにいれちゃだめなの?」
    娘「う~ん、・・・わかんない!」
    親「あ、そう」

    高野しのぶ(現代演劇ウォッチャー/「しのぶの演劇レビュー」主宰)+19才の女の子

    『アイドル、アニソンで超踊ってみた!!!!!』

    【高野】
     子供参加の発表会かと思いきや、本気のおはぎライブだった!演出の二階堂瞳子さんが客席後方でダメ出しをメモる中、ももクロ風アイドル衣裳の子供たち、アニメキャラのコスプレやメイド服姿の大人の男女が歌い踊り叫び走る!
     動画は舞台奥と天井の2面に投影され、中央客席には水や小麦粉が降ってくる。ライブ進行に関係なく客に話しかけ続けるブルマ女子(浅川千絵)も健在。ファッションチェック↓された。大きなお世話よ!(笑)

     一般参加者の達成感溢れる笑顔、泣き顔は本物。中央客席から立ち見席に移り水攻撃から逃げる自由があったのは特筆すべき変化。好感度が増し、作品が多層化する面白さもある。子供出演と野外会場は継続して革命アイドル暴走ちゃんの新ジャンルにして欲しい。

     

    【高野・娘】
     二階堂瞳子さん演出の作品は、バナナ学園純情乙女組の解散公演で一度観劇していましたが、今回は野外で且つ子供達も参加の公演ということでわくわく観に行った所、たった10分間の作品だったのに泣きかけました。何事にも無関心に、無気力に生きている人が多くなってきている(と私は思っている)世界の中で、激しい生命力と強い意思を見せつけられた気がしました。 写真は本番中メモをとり続ける二階堂瞳子さん。

     水、小麦粉、紙が降る客席で喜ぶ人、席を離れる人。カオスが客席までつくりこんであるかの様でした。






     ももクロの赤の衣装の女の子が中心でGod knowsを歌い出した時は、WSから参加の子供達が経験者と同じ土俵に上がったというか、気持ちを受け継いだ感じがして感動。

     終演後、出演していた子供達が数人泣いていました。子供達のエネルギッシュさ、笑顔が素敵でした。また子供も出演の舞台暴走ちゃんでやらないかな。次回はもっと顔が見える位置で観たいです。

    『ひつじ』

    【高野】
     『ひつじ』はもう何度目だろう。いつも自然と顔がほころぶ。羊として存在する俳優と子供たちとの出会いには嘘がない。常に初めての輝きがあるからだ。昨日『ひつじ』の出演者を偶然見かけたら、若くて美しい紳士淑女だった。彼らはこの作品で世界中を旅している。俳優という芸術家の、ひとつの幸福の形かもしれない。

     

    【高野・娘】
     『ひつじ』は一度観劇済みだったのですが、前日に普通に談笑しながら食事をする役者さんをお見かけしたのもあって、人間離れしたひつじの動きに前回に増して感動。写真は毛を刈るシーン。リアル。

     子供達が羊を凝視しながら少し怖がっている姿をみて、これがオープニングセレモニーで言われていた子供達が演劇に触れるっていうことなんだなぁと感動しました。写真は離れた所で羊を見る子供達。

     演劇によって作られた新しい世界の中に観客が存在できる『ひつじ』はやっぱり舞台を客席で観るものとは全く違っていて、演劇の力をはっきりと感じられる作品だと思います。写真は羊に餌をやる子供 。

    『トラバース』

    【高野】
     一人暮らしの男性の部屋に美女が訪ねてきて、規則正しい生活がメチャクチャに(色っぽくなる)。セリフはほぼなし。マイムとアクロバティックな身体表現で招かれざる客人たちとのバトルをコミカルに表現。細工がいっぱいの舞台美術が楽しい。特に壁が振動するのが良かった。中盤以降は芝居&マイムから音楽&ダンスへと変化し、物語を逸脱した世界に。何でもありの散漫さが気にかかってしまったが、前半はとても面白かった。体にオイルを塗って床を滑る振付は、笑っていいのかどうか…(笑)。

    【高野・娘】
     キッチンのセットが素敵。はじめの毎朝の日課(?)をやっているシーンが面白かったです。だんだん夢の世界に入って行ってからはよく分からなかったけど。これも子供用の舞台なのか…とすこし不思議な感じがしました。

    『アストンの石』

    【高野】
     会場に入るなり、迎えてくれた俳優から開かれた温かい心が伝わってきた。パンフレットによるとスウェーデンのシアター・ペロは1983年創設。首都に2つの劇場を持ち、海外ツアーも含めて年間450ステージも上演している。児童演劇のプロ中のプロだ。
     コントラバス、キーボードを奏でながら歌い、言葉とマイムで物語を紡ぐ。演技はもちろん、演奏も歌も聴き惚れるほど巧い極上の音楽劇だった。子供にはまず、こんな舞台で演劇や音楽に触れて、人間の優しさを感じて欲しいと思う。
     少年アストンが外出の度に石(ストーン)を拾って帰るので、家中が石だらけ。父母は息子を叱らず、家族同然となった石たちとお別れをさせる方法を思いつく。大人の常識を押しつけず、子供の全てを受け入れ、ともに在ろうとする家族の姿に一番感動した。

    【高野・娘】
     役者さんの歌が、演奏が、お芝居がとっても上手でプロだなと感動しました。役も役者さん自身も優しくて温かくて。子供のための演劇をやってる人達は違うなと思いました。コンフェティ劇団『チックタックの秘密のとびら』を思い出しました。子供に対して真摯で素敵です。

    『ペイント版スズの兵隊』

    【高野】
     透明ビニールのキャンバスに絵を描きながら、アンデルセン童話を一人語り。おもちゃの兵隊がバレリーナに恋をして、小部屋から飛び出し冒険の旅へ。筆やスタンプ、ローラーの軌跡が物語を生み出しては刷新していく。絵画の無限の可能性を実感。ゴブリン(風の精?火の精?)の乱暴な登場で何もかもが塗り替えられるのが痛快。背後(舞台奥)からの青い照明で海の波を作り出したのが美しかった。通訳の女性の演技がとても上手で臨場感があり、子供たちも集中できていたように思う。

    【高野・娘】
     絵と照明の演出でプラスチック製のキャンバスがいろんな場所に変化するのが素敵でした。特に海のシーンと最後の赤い照明に映し出される2人のシルエットが幻想的。通訳の方の演技もよくて子供達もすごく集中してたように思います。登場人物のゴブリンはすごく乱暴で、私の偏見かもしれないけど、あの凶暴さというか無慈悲なところはあまり日本にない感覚じゃないかな。日本の子供用のアニメではあそこまで激しいのをみたことがなかったので驚きました。

    『ひとりぼっちのおはな』

    【高野】
     得体の知れない生き物が少しずつ変化(脱皮)していく。生き物の声はスピーカーから流れていて常にゲップ混じりだった。日本人がゲップの音を聴いても笑わないのは、作り手にとっては想定外だったんじゃないだろうか。生き物の顔面に目、口がくっついてから、観客の反応が各段に良くなった。やはり人間は顔の表情を見てコミュニケーションを図っている。そこは世界共通だと思った。

    【高野・娘】
     衣装が可愛かったです。分かりやすく演出されていて、ゆるやかに笑いも出たりして。ただ、分かりやすすぎてすこし退屈な場面もありました。人間の体になってからが私は面白かったな。

    『拡張演劇1』

    【高野】
     『拡張演劇1』の上演時間は1時間強。
     ロロ:小学三年生が夏休みに音楽を捜す話。声も動きも大きくて元気いっぱい。説明セリフが多くて残念。
     悪魔のしるし:笑い死にするかと思うぐらい笑った!そして底知れぬ恐怖も味わわせてもらった。子供騙しという嘘、いわゆる偽りの嘘、演劇の嘘を、巧みに、ブラックユーモアたっぷりに見せる。小学生の女の子が笑いすぎてイスから崩れ落ちてた(笑)。
     ホナガヨウコ企画:舞台中央に設置したキーボードとドラムセットの生演奏。その周囲でダンサーが踊る。録音した声がすぐ音楽になるのは楽しい。奏者とダンサーの位置関係のせいか、全てが内向きに感じてしまった。私がスポーツ苦手なせいかも。

    【高野・娘】
     『拡張演劇1』
     今日1日海外の演劇を観てきたので、日本の演劇って難解だな~と思いました。ストーリーの意味が分からず、もしかしたら裏の意味が…?と考えてるうちに次のシーンに進んでしまいます。結局あまり真意が掴めないままに終わってしまいました。
     ロロ:少年時代、ラブマシーン、古い歌と古風なおばあちゃん。大人が思い出したいメルヘンな子供の頃の思い出のイメージ? 主人公の名前、サマーアンセムも歌だとは知らず、どんな字を書くんだろう…どんな意味なんだろう…と思ってました。昔流行った曲なのかな。
     危口統之「オスヌ・オタマイ・ウカルベカス」:何かが登場する度に笑ったし、笑の取り方の方向性も好きでした。客席にいた子供が椅子から転げ落ちてお腹かかえてて笑っているのに、隣の大人は真顔で観てたりしたのも面白かったです。
     ホナガヨウコ企画「スポーツバンドと音楽パーク」。ダンス?ライブ?私はどちらも慣れていなくて、何をどう観ていいのかさえ分からなかった…まんまるの衣装が好きでした。横の席だったからだと思いますが、照明が明るすぎて目が開けられないシーンがあったのが残念。

    『拡張演劇2』

    【高野】
     『拡張演劇2』の上演時間はほぼ1時間半。
     冨士山アネット:下手前の透明パネル上の文字の影が舞台奥の壁に映る、凝りに凝った影絵と演技の組み合わせ。籠の中に人が入るのが良かった。「マクベス」の変奏のような創作テキストは大人にも難解だったかも。欲を言えば動きの激しいダンスも観たかった。
     モモンガ・コンプレックス: 舞台上に流れて来る紐につながれた物体に、一匹の蝿が応えるナンセンス・コント。『拡張演劇1』の悪魔のしるしと同様、笑いが止まらなかった。発想も演技も好みど真ん中で、子供たちと一緒に悶えた(笑)。白神ももこ恐るべし!
     範宙遊泳: 壁に映る動画や文字に合わせて演技をする、おとぎ話の絵本のような舞台。カラフルな色合いがいい。演技のテンポが単調で(縄跳び以外)、もっと緩急をつけてもいいのではと思った。客席の子供たちも手を伸ばしておばけのおさしみを食べていた。

    【高野・娘】
     『拡張演劇2』
     冨士山アネット: 私は小学生の時からマクベスが大好きなので、女優さんが手を洗う仕草をしつつ夫の話をしている時に、もしかしてマクベス?!と思って少し期待しつつ観ていたら本当にマクベスの話になって私は大喜び。最終的に良く分からなかったっていうのが正直な感想なんですが、影絵素敵でした。女優さんの横顔も。

    『スプートニクの深海探検』

    【高野】
     最愛の妻を亡くし天涯孤独となった主人公が、絶滅の危機にある人類を救うため、単独で深海へダイブ。語り、演技、生演奏に加え、デジタル機器を駆使して動画、音響、照明等も一人で担う。アニメと演技のコンビネーションが見事。設定は絶望的だが常にユーモアがあり、大いに笑って涙した。手の甲に球体を乗せる指人形(?)の可愛らしいこと!妻の魂を追い掛ける主人公の一途さが切ない。壮大なSFの中で夫婦や親子という最小単位の幸福を描いてくれた。

    【高野・娘】
     地球温暖化で水浸しになってしまった世界。絵の描写、台詞で本当に沢山の人が死んでしまった悲劇がうかがえるのに、コミカルに作ってあり、楽しく観劇できました。世界の辛い事実を提示しながら、登場人物たちがとても優しくて、世界全体が優しく感じられるのは、子供達に見せるファンタジーの世界としてとっても素敵で、優しさに涙が出ました。

    『夢見るための50の方法』

    【高野】
     パジャマ姿の男女の夢の中を覗く旅。ホラーあり、お色気ありの無言劇で、大人も子供も飽きさせない。体形(太っちょ・マッチョ等)を生かしたコミカルな演技が微笑ましく、バレエやダンスが予想以上に巧くて驚いた。
     CORPUSの作品は過去に『ひつじ』『飛行隊』を観た。常に集中して鑑賞できるのは、演技力も身体能力もレベルも高いから。技能を見せびらかさず、娯楽であることに徹しているのもプロ。ただ今作では銃が出て来るのが私好みではなかったかな。

    【高野・娘】
    「ひつじ」では全く意識していなかった役者さん達の魅力がよく分かる作品でした。あんなに綺麗にバレエが踊れるとは思わなかったし、あんなに筋肉質な体だとは想像していませんでした。これがプロなんだな~と思いました。

    『「教室」』

    【高野】
     本物の家族が本人として登場する飴屋法水さんの作品。F/Tで上演された飴屋作品『わたしのすがた』を思い出した。人は動物と何が違うのか、どこで線引きされるのか。そう問われながら、観客は自分の生い立ちや家族のことを考えることになる
     家族という共同体がどうやって形成され、維持されるのか。子育てにおける父親と母親の決定的な違いとは。そんな根本的な問への回答が実例でもって示されていくのがスリリング。家族はシンプルだ。そして、もっと自由で多様でいいんだと思った。
     客席には大人に混じって小中学生の集団もいて、テーマがテーマゆえ、緊張感もあった。飴屋さんがあるタイミングで彼らに語りかけたことで空気が変わり、舞台上と客席にいる「家族」たち全員が参加する作品になったように感じた。

    【高野・娘】
     私は中学生の頃に飴屋法水さんの『転校生』を観て、飴屋さん、コロスケさんのツイッターをフォローしていて、アップされていく、くるみちゃんの写真を逐一保存しているようなファンなので、舞台上でくるみちゃんが動いているだけで感動していました。
     私が一番驚いたのは勝手に神格化していた飴屋さんのイメージが今回の舞台でかなり人間らしくなったこと。私の父に似てると思うこともありました。途中でとぎれてしまったコロスケさんの台詞「これからも、3人で…」が印象的。男の人ってずるい。
     私は身近な人の死を未だ経験したことがなく、また、いとこもいない私は家族で一番若い子供で。あまりぴんときていなかった気がします。きっと私が子供を産んでいたり、身近な人が死んでしまっていたら考えることが違うんだろうな。

    『ロビンソン&クルーソー』

    【高野】
     観客参加型演劇。水に囲まれた無人島で“敵”の汗だくのボディーランゲージに応えたくてがんばった。知らない外国語は聴き取れないが「伝えたい」「わかりたい」と双方のベクトルが向き合っていれば、簡単な意志疎通はできる。その状態が幸せ。
     子供たちの積極参加のおかげで楽しい時間になった。時の経過をあらわす照明と映像で異空間体験。特に床に横になって星空を眺めた時は気持ち良かった。初回は幕で囲まれた会場の暑さ対策のための工夫もよく見られたが、2回目以降はどうなったかな。

    【高野・娘】
     観客参加型の演劇は自分が話かけられると緊張してしまって苦手なのですが、私の観た回は子供達が積極的に参加してくれて、楽しく観ることができました。その回のお客さんによってすごく変わる舞台だと思います。映像の演出が素敵でした。

     

    林立騎(ドイツ語翻訳者)+2才の男の子

    「夢見るための50の方法」

     今日、初めて子供と演劇をみて、観客としてまた親として、とても揺さぶられた。わたしはこれまで「孤独な個人の観客」だった。好きなように舞台を知覚し、好きなことを考えながらみてきた。しかし子供が膝を乗り降りするだけで、自由で独立した観劇は成り立たなくなった。
     あるいは、演劇はどこをみてもいいはずなのに、子供がよそ見をしていると、つい視線をみちびきたくなる。なにかをみていて「こわい」と言われると、とっさに「こわくないよ」と言いそうになる。自分自身が問い直された。

     演劇は社会的な芸術、共同的な芸術と呼ばれるが、「ともにみる」とはどういうことだろう。それはまだまだ様々な角度から考えていいことかもしれない。

    「アストンの石」

     アストンが寒そうな石やさみしそうな石をひろうたびに、つい、自分の子供もそんなふうになってほしいと思った。あるいは、アストンが一つずつ大切に毛布をかける石のようなものを彼ももつだろうかと考えた。いつも抽象的な言葉をつかい、実体の有無も疑わしい物事について考え、文章を書いている気がするが、隣に子供がいるだけで、良くも悪くもすべてが具体的になるらしかった。「ともにみる」ということは、「ともにみる」その相手に影響されながらみる、ということらしかった。

    「トロピカルモンスーンな一日」

     カンボジアの伝統舞踊をみた。からだの動く速度がちがう。指の流れが、ひじの曲がりが、服装と音楽がちがう。目はわたしたちの現実とは別のなにかをみている気がする。子供は静かに「こわい」と言う。言いつつみる。そしてわたしはカンボジアの伝統をこわがる感覚をまっとうなものと感じる。知らない音や身振りは「こわい」。こわいけど、ついみてしまう。こわいけど、すごい。こわいけど、こわいもののない世界のほうがこわい。伝統芸能は児童演劇祭にこそふさわしいのかもしれない。

    「スプートニクの深海探検」

     30分ならともかく、50分の作品は2歳の子供には無理ではないかと疑っていた。まして『スプートニクの深海探検』はストーリーの明確な近未来SFだ。わからなくて嫌になり、劇場を出たがるのではないか。あるいは暗くて寝てしまうのではないか。だがそんなことはなかった。主人公が海に潜る音を「お」とか「ぽこぽこ」と言ってまねしたり、その妻の魂を「おつきさま」と呼んだり、魚の出現を楽しんでいた。彼には難しいかもしれない、無理かもしれないと、どうして思ったのだろう。それは自分の演劇経験を基準にした決めつけに過ぎなかった。よい作品は誰もがなんらかのかたちで楽しめる。それを信じているか否かが、社会的芸術と呼ばれる演劇を「ともにみる」とき、根本的に問い直される。「わたし」は誰か、だけでなく、「わたし」はどんな「わたしたち」をつくっているか。無意識に、具体的に。演劇は個と集合(家族、友人、地域、国家…)を同時に問い直す。空疎な閉域ではなく、社会的関係を現実につくる。東京ではない大阪で、大人ではなく子供のための演劇祭を、一人ではなく家族とみて、演劇の歴史が自分の中で生まれ直すかのようだった。

    日比野啓(演劇研究者、成蹊大学文学部准教授)+10才の女の子

    「アダムさんとイブさん」

    「箱庭」で演じられる人形劇が上手に、その箱庭に向けられた二台のビデオカメラが映し出す映像が中央に、そして音楽家が下手に。まず、聞こえてくる様々な音に魅せられる。森の木々に見立てて砂地に枝を挿していくときの音。よく鳴る砂だなと思ったら、デンマークからわざわざ持ってきたのだとか。その音にかぶせて、音楽家が手作りの楽器や口で作り出す効果音。だがこの作品の本当の面白さは、文楽と同様、三方からやってくる視聴覚情報を自分の頭の中で統合することで一つの情景が浮かび上がることにある、と徐々にわかってくる。高層ビルの林立する都市が大火にのみ込まれていく場面で、熱せられたものがはぜるような音がする。水中で空気がごぼごぼと上がっていく音がして、映し出されているのは水底で人形たちは泳いでいるのだと知れる。原題をそのまま訳せば『天地創造』だが、世界がいくつも作られ、壊れていくのを観客は自らの想像力のなかで神さながらに楽しむことができるのだ。

    「アイドル、アニソンで超踊ってみた!!!!!」

    新カンパニーの名前を掲げて二階堂瞳子が作ったオープニングアクトは、彼女が新境地を切り開いたことを示していたが、同時に新しい試みゆえの未熟さも感じられた。小学生の女の子たちを使い、ふだんは大阪弁を話すことが多い人々に標準語の歌を歌わせ、さらには新加入のアマンダ・ワデルをフィーチャーした英語のナンバーを入れることは、二階堂がこれまで培ってきたノウハウではできないことにチャレンジしたことを意味する。だからバナナ学園純情乙女組末期の上演の「強度」を期待すると肩すかしを食う。全員でがなり立てる「六甲おろし」の強烈さは印象的だったが、「仰げば尊し」も50年代アメリカンポップスも迫力に欠けた。だがこれを二階堂瞳子の「作品」としてみなしてはいけない。ワークショップの成果としては、参加者全員を巻き込み、一つの方向にまとめ、結果として「二階堂瞳子」色のはっきり現れたものになったのだから、大成功だったのだ。終わったあとに小学生の女の子が流していた涙がすべてを物語っている。
    「拡張演劇1」

     ロロ「かわいいうた」イメージとイメージがうまくつながっていかない。探していたカセットテープはじつは自分が持っていた、という「青い鳥」を思い起こさせる物語、ゼミの鳴き声、井上陽水「少年時代」などの夏を歌ったヒットソング、そして祖母の家を訪問したときに感じる違和感、弟の誕生といった、多様で雑多なイメージを20分足らずの作品に詰め込む力技を見せたかったのかもしれないが、結果として一つ一つのイメージは説明不足のまま、断片的な印象だけが積み重なっていった。一つのイメージをひたすらベタに説明していく海外の子供向け演劇作品の真似をする必要はないと思うが、連想の速度が速すぎて、なぜこのイメージが次のイメージにつながるのか、大人の観客でも理解しがたかった。
     危口統之「オスヌ・オタマイ・ウカルベカラズ」往年の松本人志のコントを思わせる内容に爆笑。ただ、頭の片隅では「このままで終わったら、よくできた松本人志の物真似だよな」と冷静に思っていた。ところが最後にイソップ童話の「狼少年」が引用され、やられたと思った。いくら呼んでもトトロはやってこず、そのかわりに別の生物が召喚されてしまう、という物語は、狼が来るぞと嘘を言い続けていたら本当に狼がやってきてしまう物語と重ね合わされることによって、言葉によって約束された世界と、現実の世界のあいだにはタイムラグがあり、二者は正確に対応していない、ということを示す例になる。幼少時に誰もが体験するこの根源的な体験(フロイトが「いないいないばあ」遊びで記述したことでもある)を舞台化することで、ベケット『ゴドーを待ちながら』を同様の体験として解釈してみることを示唆することにもなった。ホナガヨウコ「スポーツバンドと音楽パーク」ホナガは、矢野顕子らの系譜に連なる「ピュアな感受性」を持った人であることはよくわかった。エレピとドラムを舞台中央に据えて、その周囲をクラブ活動の女子中学生ともいたずら好きの精霊ともつかぬダンサーたちが踊り回る、という設定も最初は素晴らしいと思った。だが、次第にホナガをはじめとするパフォーマーたちのひたむきさ、世界と交信できていることに(根拠なく)彼女たちが抱いている確信に苛立ちを覚えるようになる。言葉への不信を煽る危口作品の後に置かれたことも災いして、この(慎重に選び取られた態度としての)「能天気さ」を子供たちは共有できるのだろうか、ホナガのような「ピュアさ」を保つことができるのは、強靱な精神を持った人だけではないか、という疑いが湧いてきてしまう。純粋無垢でいることの正しさ・美しさが強調されるという点で、この作品は奇妙なことに過去何十年間か無反省に作られ続けてきた日本の「児童演劇」の退屈さを思い起こさせた。

    「ひとりぼっちのおはな」

    邦題だと花についての物語だと思ってしまうが、原題は「鼻をまじえてのソロ」。正体不明の生き物が手足をつけ、顔を突き出し、目と口をつけて人間らしきものになり、最後に鼻を探すが、なかなか適したものが見つからず…という物語。音楽に合わせ、体のあちこちの部位を器用に動かして「変身」を遂げていくパフォーマーに幼い子供たちは面白がっていた。「変身」「変化(へんげ)」は演劇的想像力の基底をなすもので、何かが別のものに目の前で変わっていくことは誰しも驚きと喜びを覚える一方、使い古された手法ゆえに、とりたてて独自のひねりがないこの作品は大人には少々退屈だった。

    「ペイント版スズの兵隊」

    幼い頃、透明なアクリル板にマジックで絵を描きながら物語を語っていく水森亜土のアートに魅せられた世代の人間にとって、新鮮味は余りないのではないかと恐れていたが、いい意味で予想は外れた。アンデルセンのよく知られた童話に、ゴブリンのグリーシャを付け足したアーティストの意図は明らかだろう。世界を崩壊させ、無秩序をもたらす怪物は子供が無意識に抱いている願望の反映だ。透明なビニールに描かれた町や子供部屋が、重ね描きの手法によって、水や火にのみ込まれて一色に染まっていくように見える。水を含んだブラシを使って描かれた家やおもちゃ箱が消されていき、やがて渦巻き模様が一面に広がる。その向こうにぼんやりと見えるのは、スタンプとして押されたスズの兵隊だ。心の底に眠っていた破壊衝動を刺激されて、子供ばかりでなく大人も我を忘れてそれを見入る。がっしりと掴んだ観客の心を駆動力にすることでライブで絵を描いていく、こういう作品こそ、アクションペインティングの名にふさわしいのではないかと思った。
    「トラバース」

    語られるストーリーや設定はさして重要ではなく、ダンサー(たち)が踊ってみせることの口実だけに用いられている、と感じるダンスカンパニーがある。「トラバース」を上演したカンパニー・アルコスムはその一つだ。舞台全体に設えられたシステムキッチンの中にいる男が、台所用品や家具、隣人に翻弄されるという、キートン『文化生活一週間』を思わせる導入部分や、身の回りのものを打楽器がわりにしてリズムをとる、『ストンプ』によく似た途中のシークエンスを見ると、枠組みそのものにオリジナリティを求めているのではなく、ありきたりの枠組みを使ってダンサーたちの身体を見せたいのだ、ということがわかる。とはいえ、高い身体性が見られるわけでもないので、全体としては微温的な作品を見せられた、という印象。笑いをとる場面では子供たちにも受けていた。

    「ひつじ」

    物語は以前見たときとほぼ同じ。何度見ても感心するのは、できがよいからだろう。着ぐるみを着込んだ俳優たちが扮している羊たちは、愛らしいというより「リアル」だ。ときには不気味ですらあるリアルさは、何よりもその目つきから受ける印象からくる。動物特有の「何も考えていない」目。外界の刺激には反応するが、反省とか想起といった知的活動とは無縁である動物は、私たちにとって理解の範疇を超えた存在であるがゆえに、本来恐怖の対象なのだと改めて思い知らせてくれる。子供たちはみな、餌の野菜をやったり、絞りたてのミルクを飲ませてもらったりして、参加型のパフォーマンスを楽しみつつ、腰が引けている。追っかけ回されたり、突然メエーと妙に甲高い声で鳴くからだけではない。子供なりの直感の鋭さで、羊になり切っている俳優たちの「異質さ」を感じ取るからだろう。本物の羊であればまだ心理的な準備ができるが、「物分かりのよい」大人ばかりに囲まれて育つ今時の子供たちにとり、こんなふうに(羊の格好をしているとはいえ)人間が理解を拒絶するような態度をとることそのものが怖いのだ。してみるとこの作品は、異質な他者の共存する社会へ子供が参入するための格好のオブジェクト・レッスン(実地訓練)かもしれない。

    「アストンの石」

    何の変哲もない石ころをいくつも拾い集めては家に持ち込み、両親を困らせるアストンにはどんな子供も共感するはずだ。何にこだわるかは違っても、大人はわかってくれない(と子供は思い込んでいる)こだわりを子供は一つか二つ必ずもっているからだ。そんなアストンとその両親の物語を、俳優たちが歌や演奏をまじえて演じる、いわば子供のための演劇の王道のような作品。たとえば家中に散乱する石を集めて、「仲間」たちのたくさんいる海辺に持っていこうとする場面では、袋いっぱいに入れた石が重くて持ち上がらない、という演技で会場を沸かせていた。ただ、どの場面でも(実際に同じような場面をみたわけではないにもかかわらず)既視感を感じてしまうひねくれた大人の私には面白くはなかった。また、なぜ英語で上演したのだろう。スェーデン語がわかる人がゼロであっても、その言語の響きを聞くことは観客の世界を拡げることになるだろうに、と思った。
    「教室」

    語られるのは極私的な経験であると同時に、男なら誰しも抱く、家族の在りかたについての身勝手な夢想でもある。近代演劇や映画が繰り返し語ってきたこの普遍的な主題に新たな形を与えたことに感銘しつつ、飴屋とその家族ではなく俳優たちが演じればいっそう広がりを持つと思った。今伝わってくる切実さや微妙なものは全て失われるだろうが、この作品の魅力はそれでも骨太のドラマが残る点にある。なるほど、当事者性だけが与えることのできるヒリヒリした感触も魅力だが、俳優たちが演じることで、ここで見事に示されているのが、飴屋一家だけではなく、多くの家族の成員間で見られる愛情と緊張関係であることをもっと明らかにできるだろう。

    「ロビンソン&クルーソー」

    まずは既存の作品を換骨奪胎した多田の鋭いメス捌きに脱帽。元になった作品は未見だが、二人の大人が「他者」として出会い、やがて交流を深めていく、という物語が、予定調和を超えて感動をもたらすのは難しいのではないだろうか。観客としての子供たちが俳優の大人と出会う、という物語に多田が変えたことによって、子供たちにも俳優にも予想のつかない反応に身構える緊張感が生まれた。ただ、共同制作である以上難しいだろうが、デンマーク人の俳優だと、外国の愉快なおじさんが演じている、という子供たちの「常識的な判断」を大きく崩すことはできない。おそらく多田も一度は考えたのではないかと思うが、日本での上演ではぜひ中国人か韓国人の俳優にやってほしかった。そうすれば、アジアの隣人たちとの関係構築に苦慮する私たち大人の切実さや緊張感が子供たちにも共有され、いっそうリアルなものになったのではないだろうか。
    「タカセの夢」

    今時の大抵の日本の子供は身体に刻み込まれるような「経験」をしていないため、子供相手のワークショップは難しい。子供の身体にアクセスしてもごく「浅い」記憶や経験しか引き出せない。ましてや演出家が異文化出身であれば、子供たちにとって何が切実で、何が大きな感情をもたらすかを探ることは難しいだろう。伝統から切り離された文化環境にいる子供たちに「かごめかごめ」を歌わせても今一つ響いてこないのはそのためだ。その一方で、子供は経験によって型にはめられていないため、自分たちの生活とは無縁の形式を模倣することは巧みである。メルラン・ニヤカムはそのことに途中で気づき、子供たちの身体からリアルなものを引き出すことから、子供たちの身体を使ってフィクションを作り上げることへと目標を変えていく。その結果、作品は徐々に面白くなってはいくのだが、前半の空虚さの印象を覆すまでには至らなかった。

     
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